活躍した人たち
日露戦争(1904年〜05年)
連合艦隊司令長官 東郷平八郎(とうごうへいはちろう)
何をした?
日露戦争においては、連合艦隊司令長官として海軍の作戦を指揮し、ロシアが太平洋に配備していた艦隊を撃滅した後、バルト海から増派されたバルチック艦隊を対馬沖で迎えうち、日本海海戦において、世界に例のない大勝利をおさめ、日本の勝利に大きく貢献しました。
なお、バルチック艦隊に接近後、左に大きく変針し、敵の前方をさえぎり、集中砲火を浴びせた作戦は、T字作戦(トーゴーターン)と呼ばれ、世界的に有名です。
こんなこともありました
子どもの頃の平八郎は、勉強に励み、剣術をいっしょうけんめい練習しました。
頭が良く負けずぎらいでしたが、時々いたずらもしたようです。父親の馬にかまれた時には、なぐり返してけがをさせたり、兄の入浴中に水を持ってくるように命令されたことが気に入らず、とうがらし入りの水を持って行き、父親にしかられてよその家に預けられたこともあったようです。
連合艦隊作戦参謀 秋山真之(あきやまさねゆき)
何をした?
大変な勉強家で、アメリカで海軍の作戦・戦術について研究し、帰国後は海軍大学校の教官として勤務していましたが、東郷司令長官に認められ連合艦隊の作戦参謀になりました。
バルチック艦隊を撃滅するために、戦艦・巡洋艦による砲撃、駆逐艦・水雷艇による魚雷発射、機雷敷設などを組み合わせた7段がまえの作戦を考え、日本海海戦の圧倒的な勝利に大きく寄与しました。
バルチック艦隊と戦うために連合艦隊が出動したときの「天気晴朗ナレドモ波高シ」の電文や、連合艦隊が戦時編成を解いたときの解散の辞は、秋山作戦参謀が起案したもので、名文として知られています。
こんなこともありました
四国の松山で育ちましたが、子供のころはガキ大将で、いたずらをして親を困らせることがたくさんあったようです。
正岡子規とは大変なかよしで、文学の道を進みたかったようですが、家が貧乏でしたから学費の要らない海軍兵学校に入りました。
試験のやまをかける名人で、あまり勉強しなくても、いつも良い成績をとりました。
豆が大好きで、軍人になっても、いつもポケットにいり豆を入れており、仕事に熱中すると、周りを気にせずぽりぽり食べていたそうです。
旅順港閉塞船指揮官 広瀬武夫(ひろせたけお)
何をした?
旅順港に逃げ込んだロシアの艦隊が外に出られないようにするため、港の出口に船を沈める閉塞作戦が行われました。
第2回目の作戦で、広瀬中佐は「福井丸」を指揮し、敵の猛攻撃を受けながら港の出口に近づいて船に水を入れましたが、杉野上等兵曹が戻ってこないため、沈みつつある船の中を三度も探しました。
それでも見つけることができず、やむなく離船するボートに乗り移った時、敵の弾が当たり戦死しました。
危険をかえりみずに部下を救おうとした広瀬中佐の行為は、人々に賞賛され歌にもなりました。
こんなこともありました
大分県の出身で飛騨の高山で小学校の教師を勤めたあと、海軍兵学校に入りました。
ロシアの駐在武官として勤務したときは、ロシアの将校に柔道を教えるなど多くの人々と交流しました。
女の人にも大変人気がありましたが、軍人としての任務に専念するため結婚をしませんでした。
豪放磊落でどんな仕事でも先頭に立って取り組み部下想いでしたので、広瀬中佐が勤務していた軍艦はふんいきが良く、成績もあがりました。
ポーツマス条約(1905年)
前司法大臣 金子堅太郎(かねこけんたろう)
何をした?
政府は日露戦争が始まるとすぐに、金子堅太郎をアメリカに派遣しました。
金子堅太郎はハーバード大学に留学したときの学友ルーズベルト大統領など多くの親しい人や政府関係者と会い、アメリカ国民が日本の立場を理解し支持するよう尽力しました。
そして、明治38年9月、アメリカ大統領が中に入って、ポーツマスにおいて日露講和条約が結ばれました。
こんなこともありました
福岡藩の命令で9歳の時に東京に留学しましたが、明治4年藩制度廃止により学費がもらえなくなりました。
しかし、国に帰ってもしかたがない、国家のために働きたいと考え、学僕(ある人の手伝いをしながら勉強する人)になりました。主人が出勤する時には弁当箱を持って後ろを歩き、退出する時は、玄関の式台の下に座って待ち、苦労しながら勉強を続けました。
そして英語を基礎から学び、ハーバード大学に留学して法律の専門家になりました。
外交だけでなく、明治憲法の制定に加わるなど司法の分野でも活躍した人物です。
話が上手で、アメリカで2時間以上の長い演説をした時も、終わりまで皆をひきつけ、拍手喝采をあびたといわれています。
外務大臣 小村寿太郎(こむらじゅたろう)
何をした?
ロシアの勢力拡張をとめるため、日本はイギリスと手を結ぶべきであることを外務大臣として強く主張し、明治35年に日英同盟が実現しました。
日本海海戦で勝利した後、日本とロシアとの間で戦争をやめようという話し合いが始まりました。
小村寿太郎はポーツマスでの講和会議主席全権(政府の代表として会議をまかされた人)として、ロシアに対してねばり強く交渉を行い、日露講和条約を結びました。
日露戦争は日本はぎりぎりの勝利でしたから、講和条約をまとめるには、大変な苦労がありました。
こんなこともありました
下級武士の子として生まれましたが、家が貧しかったために、学費を払う代わりに、学校の掃除や生垣の刈り込みなどを手伝いながら、人一倍勉強にはげみ大変評判になりました。
ロシア駐在公使の時も、暗い室内でたくさんの書物を読み、医者からは「これ以上目を使い続けると失明する」と忠告されましたが、外交官として必要な読書を決してやめませんでした。
また、仕事の成果は後世の人が判断することであると言って、自分がやった事を日記につけなかったそうです。